スプートニク・ショックとムーンショット

本書の中心となる言葉は「ムーンショット」である。もともとは月を鉄砲で撃つような無謀な試みを意味したが、現在では、実現困難でありながら、成功すれば社会に大きなインパクトを与える研究開発を指す。その象徴が、1961年にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領が掲げた有人月面着陸計画である。アメリカはケネディ大統領の演説からわずか8年後の1969年、アポロ11号による月面着陸と地球への帰還を成功させた。ムーンショットは、できることを少しずつ積み上げるだけでは達成できない。まず従来の発想では到達困難な目標と期限を定め、そこから現在へ遡って中間目標を設定する。従来の技術の延長ではなく、途中に非連続な技術革新が起こることを前提とした研究開発である。

本書の第1章では、アメリカの科学技術政策と対比しながら、日本の科学技術力の低下と、その起死回生策として導入された「ムーンショット型研究開発制度」が論じられる。

アメリカの科学技術振興を加速させたのは、1957年10月にソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた「スプートニク・ショック」だった。その後も、ソ連は生物を搭載した人工衛星、月探査機、ユーリイ・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行と成果を重ねた。「スプートニクの成功に遅れること2か月、アメリカの人工衛星第1号となるはずだったヴァンガードTV3はリフトオフ2秒後にエンジン異常を起こし、発射台上で爆発した。第二次世界大戦後の繁栄を謳歌していたアメリカは、科学技術面でソ連に後れを取った現実を突きつけられたのである。その危機感から、アメリカは科学技術を国家的最優先課題に据えた。アポロ計画とともに重要な役割を果たしたのが、国防高等研究計画局DARPA(旧称:ARPA)である。

DARPAは、失敗を恐れず、ハイリスク・ハイリターンの非連続的イノベーションを追求する。優秀なプログラムマネージャーに大きな権限を与え、短い任期で常に新しい発想を取り込んだ。その結果、インターネットの前身となったARPANETをはじめ、GPS、地震観測ネットワーク、ロボット技術、ドローンなど、後の社会を大きく変える成果を生み出した。最近ではガラス窓を自在に上り下りするヤモリの研究から、粘着力や吸盤ではない、シート状パドルを使うことで重装備の兵士が壁を上がれる「Z-Man」というプログラムの実験にも成功している。

もちろん成功ばかりではない。「超能力者」ユリ・ゲラーを迎えて、テレパシー研究やマイクロ波によるマインドコントロールの研究など、現在から見れば荒唐無稽な研究も行われた。しかし、失敗を許容しなければ、真に革新的な成果も生まれないという考え方がDARPAにはある。

日本の「ImPACT」と「ムーンショット型研究開発制度」

日本政府もこのアメリカの方式を参考に、2014年度から2018年度まで革新的研究開発推進プログラム「ImPACT」を実施した。プログラムマネージャーに強い権限を与え、挑戦的な研究を進める制度だったが、研究開発から実用化まで短期間で成果を出すことを求めたことや、目標設定、知的財産、標準化、事業化支援の仕組みが不十分だったことなどが本書で批判されている。

失敗を恐れない研究を求めながら、行政側が毎年の成果や実用化の可能性を細かく確認する矛盾もあった。高カカオチョコレートによる脳の若返り研究が、比較対象を欠いたまま発表され、参加した製菓メーカーの宣伝ではないかと批判された例は、制度運営の問題を象徴している。

ImPACT終了後、政府は「従来技術の延長にない大胆な発想」を掲げ、ムーンショット型研究開発制度を開始した。基金方式を採用し、複数年度にわたる研究を可能にした点は、単年度予算に縛られがちな日本の研究制度としては大きな特徴である。

目標には、身体・脳・空間・時間の制約からの解放、病気の超早期予測と予防、人と共生するAIロボット、持続可能な資源循環、誤り耐性型汎用量子コンピューター、気象制御、こころの安らぎと活力の増大などが掲げられている。多くは2050年までの実現を目指す。

2,000億円の予算は多いか少ないか

一方、著者は制度の問題点も厳しく指摘する。まず、研究を統括するPD(プログラム・ディレクター)の全員、そしてほとんどのPM(プロジェクト・マネージャー)が男性であり、女性比率が著しく低い。また、ロボットや量子コンピューターなど、すでに産業界が注目している分野が多く、本来のムーンショットに期待される荒唐無稽なほど大胆な構想が少ないという。

予算についても評価は分かれる。約2,000億円は巨額に見えるが、多数の研究に分散される。一方で、国立大学の運営費交付金は長期的に削減され、施設の老朽化や光熱費の高騰に苦しむ大学も多い。研究者を競争的資金獲得へ向かわせながら、実用化の可能性が高い研究へ「選択と集中」を進める政策が、本当に日本の科学力を再生させるのかという疑問が残る。

一方で数十兆円をかけるアメリカ、EU、中国などの科学技術投資と比べれば、日本の規模はあまりにも小さい。著者は、日本のムーンショットにはアポロ計画の月面着陸ほど明確なゴールが見えないとも批判する。

それでも著者が本書を書いたのは、制度設計とは別に、個々の研究が非常に興味深かったからである。多数のプロジェクトから18の事例を選び、約30人の研究者のもとを訪れて丁寧に取材している。全454ページの大半がインタビューで構成されており、読み応えのある力作である。

18のプロジェクトを紹介

紹介されるテーマは、健康寿命の延伸、睡眠負債の解消、人工冬眠、昆虫の食料・飼料利用、生物農薬、自動照準レーザーによる害虫駆除、アンドロイド、身体感覚の共有、自在ホンヤク機など多岐にわたる。

石黒浩教授のアンドロイド研究は、タレントのマツコ・デラックスをモデルにした「マツコロイド」でよく知られている。もっとも、マツコロイド自体はムーンショット事業以前の成果であり、現在のサイバネティック・アバター研究につながる基盤技術の一つと見るべきだろう。

害虫をレーザーで自動追尾し、狙い撃ちする技術も興味深い。農薬の使用を抑えながら、低コストで害虫を駆除することを目指す。実現すれば農業の姿を大きく変える可能性がある。

世界的指揮者の西本智実氏による、音楽を科学的に分析する研究も異彩を放つ。音楽を単なる芸術や娯楽ではなく、脳活動、自律神経、感情、身体反応、集団行動に作用する技術として捉える。実験コンサートでは観客の脳活動や生理反応を測定し、音楽が心身に与える変化を解析する。

遠隔地の演奏者が、通信による微妙な時間差を調整しながら同時演奏する実験も行われた。将来的には、地球と月面、火星などを結ぶ音楽芸術祭を開催し、身体や生物種、惑星間の境界を越えて感動を共有する構想まで掲げられている。これこそ、実現性だけを考えれば大胆すぎるが、ムーンショットという言葉にふさわしい発想だろう。

H2L社長・琉球大学工学部教授の玉城絵美氏が進めるBodySharingも印象深い。腕などに装着したセンサーで筋肉の動きや力加減を検出し、その感覚や動作をロボットや他人と共有する。一人の身体を複数人で操作する実験にも成功している。2050年には皮膚感覚に加え、満腹感や空腹感、胃もたれ、疲労感など、人生すべての体験を共有することを実現したいという。

BodySharingは政府のムーンショット事業に採択された研究ではない。しかし著者は、本書の目的は政府事業の解説に限定されず、日本の研究者がどのような未来を切り開こうとしているかを伝えることだとして、ムーンショット的な研究として取り上げている。

研究者に「幸福とは何か」を問いかける

本書では、各研究者に対して「幸福とは何か」「幸福を妨げるものは何か」「社会の豊かさとは何か」「研究は幸福にどう貢献するか」という問いも投げかける。自然科学や工学の研究者が、技術の先にある人間の幸福をどう考えているかを知ることができる点も、本書の魅力である。

題名には「2050の未来技術」とあるが、紹介される研究は、2050年まで何も実現しない遠い未来予測ではない。すでに試作品や実験段階に入り、実用化への道筋が見え始めたものも多い。

その意味では、アポロ計画のように国家の威信をかけ、誰もが理解できる一つの目標へ突き進む計画とは異なる。実現可能性や産業界からの需要を意識したテーマが多く、本当に「ムーンショット」と呼べるのか疑問が残る研究もある。

それでも、現在の日本の研究者が何を考え、どのような社会をつくろうとしているのかを知るうえで、本書は貴重である。科学技術政策の限界を批判的に捉えながら、研究者一人ひとりの発想と情熱に触れることができる。制度としてのムーンショットを無条件に礼賛する本ではなく、日本の科学技術の現状と可能性を考えるための格好の一冊である。

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