物理学、工学、科学、数理・情報科学、計算科学、生物学、医科学など幅広い分野での研究を行う理化学研究所(以下、理研)。その研究成果を社会に普及させるため、大学や企業との連携による共同研究や受託研究などを実施しているほか、知的財産など産業界への技術移転を積極的に進めている。その理研は、2023年3月27日に国産超伝導量子コンピューター初号機「叡」(えい)を公開し、量子計算クラウドサービスの提供を行うなど、国内の量子コンピューター研究をけん引している。理研の取り組みから、量子コンピューターのこれからを展望していく。

量子コンピューターの基本原理

理化学研究所
量子コンピューター研究センター
副センター長
萬 伸一
後ろにあるのは2026年3月26日から運用を開始した「叡-Ⅱ」。144量子ビットチップを搭載し、古典コンピューターでは実現が難しい規模の量子計算を可能にしている。

 量子コンピューターは、量子の性質を利用して計算を行う新しい計算技術である。従来のコンピューター(古典コンピューター)は、「0」と「1」の二つの数字(ビット)を使って情報を処理しているが、量子コンピューターでは「0」と「1」を重ね合わせた状態の「量子ビット」で情報を処理する。これらの違いはコインの表裏で表現されることが多く、従来のビットは表と裏のどちらかが確定された状態であるのに対して、量子ビットは裏と表が確定されていない状態だ。表と裏、どちらの結果も起こる可能性を「重ね合わせ」た状態であり、これを観測することで表裏が確定する。この重ね合わせという性質によって、n個の量子ビットは2のn乗通りの状態を重ね合わせとして表現できる。

 量子コンピューターではこの重ね合わせを干渉によって制御することで、正しい答えが測定される確率を高め、計算の高速化を実現している。また量子には、複数の量子の状態が結び付き、離れた場所にいても片方(A)の量子ビットの状態が確定すると、片方(B)の量子ビットの状態がそれに対応する結果が表れる「量子もつれ」という性質もある。量子コンピューターではこの重ね合わせや量子もつれといった量子の性質を利用し、従来のコンピューターでは膨大な時間がかかるような特定の問題に対して、超高速で結果を出すことが期待されている。

複数のハードウェア方式を研究

 理研は、日本の量子コンピューティング研究の中核拠点として、2021年4月1日に「量子コンピューター研究センター(RQC:RIKEN Center for Quantum Computing)」を開設している。2020年1月21日に国が発表した「量子イノベーション戦略」に基づき、量子コンピューター研究開発を基礎科学と実用化の両面から取り組んでいるのだ。

 量子コンピューターの要となる量子ビットを実装する方式には、超伝導や光、中性原子、イオントラップ、電子、半導体といった多彩なハードウェア方式がある。代表的なものが超伝導であり、絶対零度近くまで冷却した超伝導素子の回路に電流を流し、その状態を「0」と「1」の量子ビットとして計算に利用する方式だ。量子コンピューターといって思い浮かぶ黄金のシャンデリアのような「量子シャンデリア」は、この超伝導量子コンピューターの心臓部であり、回路を低温に冷やすために金色の円盤が重なった構造をしているのだ。

 理研 量子コンピューター研究センターの副センター長を務める萬 伸一氏は「量子コンピューター研究センターでは超伝導、光、イオントラップ、中性原子、半導体など複数のハードウェア方式(物理プラットフォーム)の研究を同時に行っています。量子コンピューターの研究に取り組む研究所や企業はさまざまありますが、多くは超伝導のみ、光のみと特定のハードウェア方式にフォーカスしており、当研究所のように複数のハードウェア方式の研究を行っている団体は、世界的に見ても珍しいでしょう」と語る。

 量子コンピューター研究センターでは萬氏が触れたハードウェア方式の中から、さらに研究チームやユニットが分かれており、合計で14の研究チーム、2の研究ユニットに加え、並外れた能力を持つ若手研究者がチームリーダーとして研究を推進する「理研白眉研究チーム」が3チーム、富士通と共同で設立した「理研RQC-富士通連携センター」が参画し研究に取り組んでいる。

 こうした研究体制の中、2023年3月27日に公開されたのが国産超伝導量子コンピューターの初号機「叡」(えい)だ。叡は、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)による助成を受けて開発されており、産業界やアカデミアからも複数の団体が参画し研究が行われた。国産初号機となる叡では量子ビットを64個並べた64量子ビットの集積回路を用いて計算を行うが、2026年3月26日から運用を開始した「叡-Ⅱ」(エイツー)ではこの量子ビット数を2 倍以上に増加させ、古典コンピューターでは実現が難しい規模の量子計算を可能にしている。

 これらの叡および叡-Ⅱは量子計算クラウドサービスとして提供されているため、インターネットを通して外部から量子コンピューターを利用できる。量子計算クラウドサービスの利用について萬氏は「理研と共同研究契約を結ぶ形で、叡および叡-Ⅱを利用できます。現在は量子コンピューター自体のソフトウェアやハードウェアに関する研究をしているユーザーや、アプリケーション開発を行うユーザーなどが利用しています」と語る。

左が叡で使用されている64量子ビット、右が叡-Ⅱで使用されている144量子ビットのチップだ。これらのチップが超伝導量子コンピューターの内部にある。

量子と物理が技術を相互補完

 量子コンピューターの実機研究開発においては、産官学連携も積極的に行われている。前述した理研RQC-富士通連携センターでは2023年10月に64量子ビットコンピューターを開発したほか、2025年4月には256量子ビットコンピューターを完成させている。また理研は、叡や叡-Ⅱの共同研究グループにも参画している大阪大学に対して、理研製の量子処理ユニット(QPU)を供給している。このQPUを活用し、大阪大学は2023年10月に64量子ビットコンピューターの実機を、2025年7月には144量子ビットコンピューターの実機を公開している。理研の量子コンピューター技術と、産業界の実用化技術を融合した研究開発が進められているのだ。

 理研では、量子コンピューター以外にも多様な研究が行われている。それらの各分野の最先端のプラットフォームを連携する「つなぐ科学」を実現させ、経済成長や社会課題の解決を目指す取り組みとして「最先端研究プラットフォーム連携」(通称:TRIP)構想がある。TRIPでは異分野の連携融合を促進させた計算可能領域の拡張に取り組んでおり、量子コンピューター領域ではスーパーコンピューター「富岳」と連携利用を行う理研内共同研究が行われている。

 萬氏は「本共同研究では、量子コンピューターとスーパーコンピューター(以下、スパコン)のそれぞれの得意な計算分野に応じたハイブリッド計算によって、計算領域の拡大を目指すものです。スパコンはパラメーターが増えると、データを記憶するメモリー空間が不足するため計算が困難になります。そうしたスパコンの苦手分野に対して、量子コンピューターを連携利用することで、計算可能領域の拡大が期待できます」と語る。

 具体的には叡のクラウドサービスを管理するサーバーに、スパコンの富岳から計算をリクエストするためのソフトウェアを作成・導入し、富岳で動いているプログラムから実行することで、古典と量子を組み合わせた計算を可能にする。量子コンピューターの実機はすでに稼働している一方で、実用化には技術的なハードルがあるという。部分的にでも量子コンピューターに任せることによる効果を検証することで、実用化の加速が期待できるのだ。

「量子コンピューターで用いる量子重ね合わせ状態は壊れやすく、計算に誤りが生じがちです。それを訂正する技術として『量子誤り訂正』があります。この量子誤り訂正を行う上ではスパコンの技術が有用です」と萬氏は続ける。古典コンピューターの技術と量子コンピューターの技術は相互に補完し合うことで、実用化に向けた進化を続けていくといえるだろう。

 政府は「量子イノベーション戦略」「量子未来社会ビジョン」「量子未来産業創出戦略」などに基づき、「量子技術イノベーション拠点」(QIH)と呼ばれる国内に12の量子技術研究拠点を整備している。理研はその中核組織であり、QIH活動のとりまとめを行っている。前述した大阪大学に加え、産業総合研究所(産総研)、東北大学、東京大学、といった場所にある量子技術研究拠点と連携しながら日本の量子技術全体の発展を押し進めている。また理研では叡や叡-Ⅱの運用を通した量子システムエンジニアの育成にも取り組んでおり、勉強会や共同研究を通して人材開発も推進している。ハードウェアからソフトウェアに至るまで、国産量子コンピューター研究開発の先陣を切る理研の量子コンピューター研究センターの取り組みは、今後ますます加速していくだろう。

144量子ビットのチップを拡大した様子。銀色のドット(点)ではなく、それに囲まれた黒の基盤部分に量子ビットがある。