一人のわずかな欲を手放すだけでたくさんの人の役に立つ
感謝や信頼をほかの人に誘導すればもっと良い何かが生まれる

バブルが崩壊してほどなく、インターネットが普及し始め社会とビジネスに変革をもたらした1995年、若き小児外科医が海を渡り単身ミャンマーで医療ボランティア活動を開始した。当時、日本人で海外、国内ともに医療ボランティア活動に携わる人はごくわずかだったため活動への認知が低く、活動を続けることは困難の連続だった。30年後の今、国際医療ボランティア団体「ジャパンハート」のファウンダー・最高顧問 吉岡秀人氏は当時と変わらず活動を続けている。吉岡氏に社会貢献への向き合い方と困難の乗り越え方について、ダイワボウ情報システム 代表取締役社長 松本裕之氏が話を伺った。

遺族会との縁でミャンマーへ渡る
戦後50年を経て人の命を助ける

松本氏(以下、敬称略)■吉岡先生は1995年に単身でミャンマーに渡られ、無償の医療活動を始められました。ミャンマーという国を選ばれた理由は何だったのですか。

吉岡氏(以下、敬称略)■第二次世界大戦中にミャンマーで亡くなられた日本人のご遺族の方々とご縁があり、慰霊についてご相談を受けました。遺族の方々が高齢化して現地に訪問できない人が増えており、このままでは訪問慰霊を続けられないとのことでした。当時、戦後50年という区切りもあり、戦時を知る遺族がいなくなっても慰霊を続けられる方法を模索していました。

 ミャンマーは第二次世界大戦中にたくさんの日本人が亡くなった激戦地であり、亡くなった方々のためにも、将来の日本人が悲しい歴史を繰り返さないようにするためにも、慰霊をやめるわけにはいかないとおっしゃっていました。

 私は第二次世界大戦で戦死された方々の命を救うことはできませんが、今生きている人たちの命を救う手助けはできます。50年の時を経て、彼の地で傷ついている人たちや病んでいる人たちを助けるという、新しい形の慰霊をしようと考えてミャンマーに行きました。

 当時は従軍を経験した現地の人たちがまだ存命で、私が日本人だと知ると当時の様子を教えてくれました。あるお年寄りは日本人がこんな風に戦って、あの木の所で亡くなったと現場で話してくれたり、また建物に残っている弾痕を見せながら、当時の戦闘の激しさを説明してくれたりしました。

 これらの話はお年寄りたちの記憶ですが、その人たちを通じて当時そこで戦っていた日本人が私にメッセージを伝えているのだと思いました。私はこういう人たちの思いを引き受けて行動しているのだと今も考えています。

 ただしメッセージを受け取ったと感じているのは私だけですから、ほかの人にこの受け止め方を強制していません。それぞれの感じ方、考え方で行動すればいいのです。ただ私が生きている間はメッセージを受け取った者として、そのつもりで活動を続けていこうと心に決めています。

松本■最初は単身でミャンマーに行かれて無償の医療活動を行われていました。たくさんのご苦労があったと推測しますが、数々の難関をどのようにして切り抜けてこられましたか。

吉岡■最初は一人でミャンマーに行って医療活動をしていたのですが、やればやるほど患者がやってきました。たくさんの患者を治療するにはより多くの医薬品や医療機器が必要になりますし、医師も増やさなければなりません。しかし私の貯金などすぐに底尽きてしまいました。

 このままでは現地での医療活動が続けられないという危機に直面しましたが、それを救ってくれたのがテクノロジーでした。当時タイの衛星回線を通じてミャンマーでもようやくインターネットが利用できるようになりました。現地での活動をPCからインターネットを通じて世界中に情報発信することで、支援してくれる人や一緒に活動してくれる仲間が集まるようになりました。

 もしも当時インターネットが使えなかったら、日本に帰国して講演会などの広報活動をして資金集めをしなければなりませんでした。アフガニスタンで医療支援や用水路建設などのボランティア活動を続けていた中村 哲先生も当時、現地で半年間活動し、残りの半年間は日本で講演活動をして資金を集めて活動を続けておられました。

 帰国している間、現地を留守にしなければならず、医療活動を行うことができません。しかし私はインターネットというテクノロジーのおかげで、現地を離れることなく情報発信できました。

 もしもジャパンハートを設立するのが数年早かったら、現在の活動を続けられていたかどうか分かりません。私は時代に助けられて活動を続けることができました。これは本当に偶然の出来事でした。

(認定)特定非営利活動法人ジャパンハート
ファウンダー・最高顧問
小児外科医 東北大学特任教授(客員)
吉岡秀人
ダイワボウ情報システム
代表取締役社長
松本裕之

一人のわずかな欲を手放すだけで
たくさんの人の役に立つ

松本■ミャンマーやカンボジア、ラオス、そして日本での医療活動を振り返って、医師になって良かったと思ったことや、現在の活動を続けてきて良かったと感じたことはありますか。

吉岡■実は医師になって良かったと思ってはいません。私は今年60歳になりますが、今でも30歳の時と同じ場所で同じような患者を診ているという感情しかありません。若い頃はミャンマーに行き、こんな理不尽な環境の中で現地の人たちが傷ついたり亡くなっていったりするのがかわいそうだと思い、自分が何とかしなければならないという感情がありました。もちろん今もその気持ちはあります。しかし世界は私に関係なく時間が流れていて、そこには自分が世界にどう関わるのかという選択があるだけです。

 自分が正しいと思う選択をして現在につながっている。満足感はあるけれども、ただそれだけなんです。ですから医師になって何かを成し遂げたということは感じていません。

 ただミャンマーでの活動を通じて知り得たことはたくさんあります。私が初めてミャンマーで活動した地域は雨が少なく作物の栽培に適していないため生活が貧しく、栄養不良や栄養失調の子どもが多くいました。そのとき支援してくれた人たちから食費として1日千円、毎月3万円をいただいていましたが、私は自分の食費くらいは自分で出すべきだと考えていたので、いただいた食費を使わないで置いておきました。

 すると3万円のお金は現地で週2回、1日2食の食事を100名の子どもたちに提供できる金額だということを知りました。そこで特に食料に困っている貧しい村を二つ選んで、その村の人に協力してもらって週2回、1日2食の炊き出しを始めました。週2回でも2食の食事を摂れば栄養が満たされて病気にかかりにくくなり、家庭の医療費も削減されると考えました。

 また無料で診察しているとお礼に野菜や果物など、さまざまな食料を持ってきてくれるようになりました。患者が増えて忙しくなるほどいただく食料が増えていきます。私一人で食べ切れないほどの量になり、最初はスタッフと分け合っていましたが、それでも消費できない量になりました。放っておくと腐ってしまうので、マーケットに持って行って売ってほしいと頼みました。それで得たお金で医薬品を買い、より多くの子どもたちの診療に生かすことができました。

 自分一人の食費を手放すだけで100人の子どもたちが食事を摂れるようになり、私には食べきれないほどの食料を持ってきてくれるようになる。その食料が医薬品に代わって、より多くの人の命が救われる。スタッフも現地の人たちから感謝されることがうれしく、自分たちの活動に誇りを持てる。一人のわずかな欲を手放すだけで、たくさんの人の役に立つ、こうした物事のつながりを知ることができました。

すべきことをしているだけ
感謝されないことの幸せ

松本■先ほど先生は医師になって良かったとは思っていないとお話されましたが、活動を続けていく中でうれしかったこともあったのではないですか。

吉岡■確かに活動をしている時に幸せに感じることがあります。以前は先ほどお話しした自分一人のわずかな欲を手放すことで、大勢の人たちの役に立つことに幸せを感じていました。しかし今は、それは幸せなことではないと思っています。

 ある村に行って診察をしたときの話です。その村には週に1回の訪問のため、私が来る日は子どもたちが大勢集まります。そして夕方になって診察が終わり村の中を歩いて帰っていると、子どもたちが晩ご飯をむさぼるように食べている姿が見えるのです。

 子どもたちからすれば私が誰であるか興味もなく、一人の日本人の医者としか認識していません、ですから子どもたちに見送られることもなく、お礼を言われることもなく、子どもたちが晩ご飯を食べている光景が目の前に広がっているのです。この状況こそが私にとっての幸せだと実感した瞬間でした。そのときは「生まれてきて良かった」「医師になって良かった」と思いました。

 私は自分の食費を手放しただけで、感謝されるようなことをしているとは思っていません。私がすべきことをしているだけです。子どもたちが晩ご飯を一心不乱に食べている光景を見て、自分の人生を全肯定できた思いがしました。

 自分に価値があるのかどうか分からないけれども、この出来事を通じて自分自身と自分がしてきたことに意味があることを認知できました。これが分かれば、これ以上は要りません。これ以上の何かが来るのであれば、それは周りの人に誘導してあげるべきです。ほかの人につなげることで、もっと良い何かが生まれるかもしれないですから。

 自分に価値があることを認知できた、これ以上を受け取る必要はありません。仏教では「陰徳」は徳が高いこととされています。陰徳とは人知れずにする施しや隠れた善行のことです。陰徳が高徳に置かれているのは最もリターンが大きいからです。

 私は治療が終わったらトラブルが生じない限り患者の元に一切行きません。治療後は別の若い医師やスタッフに委ねています。感謝や信頼をその人たちに誘導して、もっと良い何かが生まれればいいと考えているからです。

 でもたまにお礼を言われることもあります。その時は「しまった、もらってしまった」と思います。感謝をもらうことはギブ・アンド・テイクになってしまいます。そうなると自分と自分の行動の価値が消滅してしまうと考えています。

2025年10月に200床の新病院を開院
現地での取り組みを日本に持ち込む

松本■ジャパンハートさまは寄付金のみでカンボジアに建設した「ジャパンハートこども医療センター」を2016年より運営しています。さらにカンボジアに200床規模の新病院「ジャパンハートアジア小児医療センター」が今年10月に開院する予定です。新しい病院に込めた先生の思いをお伺いできますか。

吉岡■先日現地の建設現場を見に行ったら2階部分の骨組みが仕上がっていました。まだ骨組みの状態でしたが、こんな立派な建物を作ることができたことに感謝しています。

 新しい病院(ジャパンハートアジア小児医療センター)の建設を計画した時にある危機感がありました。運営中のジャパンハートこども医療センターは約90床の規模なのですが、これと同じ規模の病院では数年後は人口が増加して患者が増え、対応できなくなるかもしれないという危機感です。

 そのため数年後の患者の増加を見越して規模を拡大したいと考えましたが、計画時に調達できる資金では対応することが難しいという現実がありました。目の前に高い山があり、今の実力ではその山には登れないかもしれません。しかし2年後、3年後なら経験を積んで体力と能力が伸びて登れるようになるかもしれません。ですから今の実力で諦めるのではなく、2年後、3年後の変化を見据えて、今チャレンジしなければ前に進めないと私は考えています。ジャパンハートアジア小児医療センターもそう考えて200床という大きな規模にチャレンジし、皆さまのお陰で今年開院できるめどが立ちました。

松本■ジャパンハートアジア小児医療センターはカンボジアのプノンペン近郊で開院しますが、日本や世界に向けて発信する新しい取り組みはありますか。

吉岡■ジャパンハートアジア小児医療センターは、カンボジアをはじめとする一部の東南アジアではまだ希少な200床規模の小児病院です。将来的にカンボジア周辺国も含めてより多くの貧しい子どもたちを救っていくことを目指し、2026年開設予定の国際空港建設地に近い場所に建設しています。

 アクセスのしやすさだけではなく、たくさんの子どもたちが来院してくれる病院にしたいと考えています。多くの人たちは先進医療を提供すればたくさんの患者が来ると考えていますが、カンボジアやその周辺国には別の問題があり、そのようにはならないと考えています。

 現地には治療にかかるお金の問題、距離の問題、知識の問題、人の命に対する考え方の問題など、さまざまな問題があり、難病を患っている子どもたちが病院に来られず、症状が悪化してしまっている現実があります。先進医療を提供するだけで、こうした子どもたちが病院に来るだろうか。日本なら通用するかもしれませんが、現地ではこれでは駄目だと考えました。

 病院は子どもにとってつらい場所です。ならば子どもが喜ぶ場所を作れば良いのではないか、子どもが自ら行きたくなるような病院を作れば良いと考えました。では子どもが行きたくなるような病院とはどのような場所なのかという問いに対して、私は病院の室内をアニメのキャラクターで溢れさせようと発想しました。

 内装にアニメのキャラクターを描いたり、アニメに出てくるようなゴーカートを作って院内の移動に使ったり、治療が終わったらご褒美にカプセルトイをさせてあげたりするといった世界観を病院に実現するというアイデアです。こういった環境を作れば病気でなくても子どもが病院に遊びに行きたいと思うのではないかと考えました。

 ただし現地には治療費にも困る貧しい生活を余儀なくしている人たちがたくさんおり、治療のために家族が仕事を休んだり、看病に付きっ切りになったりすることが難しいという現実があります。そこで現段階では構想レベルですが、病院の中で家族が働いて収入を得られる仕事の提供や畑で栽培した作物を病院の食料として買い取るといった仕組みを考えています。

 ジャパンハートアジア小児医療センターでの取り組みが、将来日本に取り入れられることを期待しています。日本の病院でアニメのキャラクターを使うとなると、キャラクターを使用する権利などの問題を大人が持ち出してきます。病院には残りわずかな時間しか生きられない子どもたちがたくさんいるのに。

 現在、日本の小児病院などにセラピードッグ(ファシリティドッグ)という犬が導入されるようになりました。以前は病院に動物を連れてきて感染症が発生したら誰が責任を取るのかという議論になり、実現することは不可能だと思われていました。しかし海外でセラピードッグの効果が認められて導入が広がったことで、日本でも認められるようになりました。

 子どもたちが来たくなる病院をカンボジアに作って、それが周辺国に紹介され、いろいろな国に認知されるようになれば日本に逆輸入されるかもしれません。日本人の発想や価値観では実現できないことをジャパンハートアジア小児医療センターで実現して、それが日本に導入されるようになれば良いと考えています。

子どもたちの病気が治った後は
教育を受けさせなければならない

松本■日本以外のアジアの国で実現できることが、今すぐに日本で実現できないことに危機感を感じます。日本ではビジネスや日常生活にAIなどの最新テクノロジーが普及し、社会や経済に変革をもたらしています。しかし最新テクノロジーを活用している一方で、ITビジネスの利益はプラットフォーマーと呼ばれるGoogle、Apple、Meta(Facebook)、Amazonなど米国の一部の企業に集中しています。

 今の日本人の考え方では、これらのプラットフォーマーの一員となれるような企業は育ちません。欧米人と日本人とではそもそもの生業が違います。狩猟民族は自分の獲物を人に与えて支配してきましたが、農耕民族はみんなで作物を作ってみんなで分け合って生きてきました。

 日本人の農耕民族の価値観だけでは世界に取り残されてしまうという危機感があります。日本人の将来のためにも今の子どもたちの教育を変えていきたいと考えています。教育を変えていけば、私たちの孫の世代になったら世界で活躍できる人材がたくさん生まれるかもしれない、そういった気持ちで教育にデジタルテクノロジーを活用する支援に長年にわたって力を入れています。

 近年はSTEAM教育の普及に力を入れています。STEAM教育とは科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、芸術・リベラルアーツ(Art)、数学(Mathematics)の五つの分野を統合的に学ぶことで、異なる複数の分野を組み合わせて問題解決能力や創造性を育む教育です。

 例えば体育館で児童生徒がドローンを飛ばす際に、座標軸の計算を行うことで航路や着地地点を制御したり、自分が描いた絵の座標を計測して3Dプリンターで実体化したりするなど、これまでとは違った学術やテクノロジーの捉え方、使い方を教えていきます。そうすることで新たな能力を持つ子どもたちが育つのではないかと考えています。

 そして吉岡先生の活動を知り、カンボジアやミャンマーには学ぶこともできず、生きていくことも難しい子どもがたくさんいることを知りました。ジャパンハートさまの活動によって現地の子どもたちの病気が治った後、教育を受けさせなければ将来が拓けず、貧しい生活を続けていかなければならない。教育に関しては当社がご協力できますので、吉岡先生やジャパンハートさまのお考えに寄り添った形でお手伝いさせていただきたいと考えています。

吉岡■日本古来の神道に「八百万の神(やおよろずのかみ)」、すなわち森羅万象に宿る数多くの神々を指す言葉があります。物には神様が宿っていて決して粗末に扱ってはいけない、なるべく長く大切に使い続けるといった思想が日本人の心の根底に染みついています。

 私はこの日本人特有の思想が失われてしまうと、日本人が日本人でなくなってしまい日本は世界に負けてしまうと危惧しています。逆にここを守り続けられたら日本はまた良くなり、時代の波が来たら必ず乗ることができると信じています。ぜひとも日本人の心を教育で伝承していってほしいですね。

松本■ありがとうございます。吉岡先生をはじめジャパンハートさまの活動の意義を当社社員に実感してもらうために、いずれカンボジアに社員旅行で訪れ、現地での活動とジャパンハートアジア小児医療センターを視察させていただきたいと思っています。本日はありがとうございました。

(左)ダイワボウ情報システム
代表取締役社長 松本裕之
1966年生まれ大阪府出身。大阪工業大学経営工学科を卒業後、1989年にダイワボウ情報システムに入社。販売推進部長兼業務部長、首都圏・関東営業本部副本部長、首都圏営業本部長、東日本営業本部長、取締役販売推進本部長、常務取締役西日本営業本部長を経て、2020年に代表取締役社長に就任。ダイワボウ情報システムは2020年よりジャパンハートの活動を支援し続けている。

(右)(認定)特定非営利活動法人ジャパンハート
ファウンダー・最高顧問 小児外科医 東北大学特任教授(客員) 吉岡秀人
1965年生まれ大阪府吹田市出身。大阪府立千里高等学校、大分医科大学(現大分大学医学部)を卒業。大阪、神奈川の救急病院などで勤務の後、1995年にミャンマーで無償の医療活動を開始。1997年より岡山病院小児外科、川崎医科大学小児外科講師などを経て、2003年からミャンマーで医療活動を再開。2004年に国際医療ボランティア団体「ジャパンハート」を設立。ミャンマー、カンボジア、ラオス、日本で医療支援活動を行う。